命婦 ( みょうぶ )は泣く泣く、 「もう非常に 遅 ( おそ )いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」 と言って、帰る 仕度 ( したく )をした。
夕霧にとって雲居雁との恋が決していい加減なものではなく、きわめて真剣な、一世一代の恋であったことは、それが六年という歳月に耐え、その間いくつもあった縁談に全く耳を傾けなったという事実が証明している。
l おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑあることのふしぶしには、まづまう上らせ給ふ、 m あるときには大殿籠り過ぐして、やがて候はせ給ひなど、あながちに御前去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この皇子生まれ給ひてのちは、いと心ことに思ほしおきてたれば、 n 坊にも、ようせずは、この皇子のゐ給ふべきなめりと、一の皇子の女御はおぼし疑へり。
時間がかかります。
場合によっては、夜遅くまで一緒に過ごして寝過ごしてしまわれた時でも、昼間もそのままお側近くに置いておかれるなど、無理やりに帝が御前から離さずにお扱いあそばされているうちに、いつしか身分の低い女房のようにも見えたのだが、この御子がお生まれになって後は、特別に大切にお考えになられるようになったので、東宮(皇太子)にももしかしたら、この御子がおなりになるのかもしれないと、第一皇子の母の女御はお疑いになっていた。
なお、この桐壺は更衣亡きあとは、光源氏の居所となります。
夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。
右大臣の娘が帝に入内して大きな力を持った弘徽殿女御ですから、左大臣家から入内していたら、もっと大きな勢力になっていたはずです。
『うちとけしめやかに、御琴どもなど弾き給ふ程なるべし。
[現代語訳] どの帝の御世であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていた中に、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって帝の寵愛を集めていらっしゃる人があった。
東宮におなりになったのは第一親王である。
七歳の時に 書初 ( ふみはじ )めの式が行なわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない 聡明 ( そうめい )さに帝はお驚きになることが多かった。
それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよずけもておはする御容貌(おかたち)心ばへありがたくめづらしきまで見え給ふを、え嫉み(そねみ)あへ給はず。
その年の夏のことである。
学問はもとより音楽の才も豊かであった。
私は気付いていたと思います。